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皇室ニュース・2015/ 12~5 4・3 2・1
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皇室ニュース・2015/2・1
2015・2・28 産経ニュース (1/3ページ)  【皇室ウイークリー】 
(372)両陛下、初来日の英ウィリアム王子をご歓待 皇居外周走られた皇太子さま、伴走者は「ランニングポリス」?
「記事内容抜粋」
天皇、皇后両陛下は27日、初来日となった英国のウィリアム王子を皇居・御所に招き、約1時間半にわたって昼食や懇談を楽しまれた。
王子の祖母であるエリザベス女王の即位60周年記念行事出席のため平成24年5月に訪英されたとき以来の再会で、両陛下は玄関で王子をにこやかに出迎えて握手を交わされた。 
続いて、皇太子ご夫妻が王子を東宮御所に招かれた。
玄関では皇太子さまが出迎え、初対面の王子に英語で「お会いできてとてもうれしいです」とあいさつされた。
約40分間、通訳なしで懇談し、ご夫妻で見送られたという。
2015・1・17 産経WEST (1/2ページ)
天皇権力が弱体化すれば出雲大神の霊威力増大…出雲大社造営は「国護り」の代償だった?
「記事内容抜粋」
古代出雲の繁栄も長く続かなかった。
研究者の中には、二度にわたって征服されたと説く人もいる。
最初は吉備勢力に支配され、後に大和朝廷の支配下に入るとされる。
その時期は意外に遅く、およそ6世紀の半ばと考えられている。
記紀の国譲りの神話は、その間の経緯をなにほどかは語っているであろう。 
古代出雲の敗北は、他の地方勢力の敗北と同一に論じることはできない。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡が物語るように、古代出雲には弥生時代の大いなる繁栄の事実がある。
古代出雲びとたちは、そのことを決して忘れなかった。
彼らの胸底には消しがたい誇りの念がこびりついていた。
そんな出雲びとが、大和朝廷に屈服しなければならなかったとき、他の諸国の人々とは比べものにならないほどの強い衝撃を受けたはずである。
その結果、出雲では、長く後世に揺曳する二つの事柄が生じるのである。
2015・1・15 時事通信 
舒明天皇の初葬地か=国内最大級の方墳発見―石積み、堀出土・奈良
「記事内容抜粋」
奈良県立橿原考古学研究所は15日、同県明日香村で、天皇か大豪族クラスの古墳の一部とみられる石積みと堀が見つかったと発表した。
7世紀中頃の方墳と推定され、墳丘は一辺50メートル以上。
石舞台古墳(7世紀前半、同村)を超える国内最大級の方墳とみられる。
同研究所は規模などから、中大兄皇子(天智天皇)の父、舒明天皇が最初に葬られた墓の可能性が高いとしている。
舒明天皇は没後、最初に葬られた場所から同県桜井市の段ノ塚古墳に改葬されたとされる。
同研究所の菅谷文則所長は「(改葬後に)元の場所がどうなったか、解明の端緒になる」と話している。
同研究所によると、見つかった古墳は四角形と推定され、墳丘下部とみられる石積みが10段(高さ計約60センチ)と、堀の跡が確認された。
堀は幅が約3メートル90センチで、底部に石が敷かれていた。
墳丘の反対側の堀の斜面には多数の石が貼り付けられ、発掘された分だけで高さが11個分(約1メートル)あった。
墳丘と堀は、場所によって異なる種類の石材が丁寧に使い分けられていた。
石室は見つかっていない。 
2015・1・14 産経WEST (1/3ページ) 【神武天皇・海道東征】
イワレビコ誕生(1)文明伝播 国を豊かにする旅  (1/3ページ)
イワレビコ誕生(2)生まれながら聡明、意志固く  (1/3ページ)
イワレビコ誕生(3)幼い心に映る「水穂」の原風景  (1/3ページ)
「記事全内容」
宮崎市の高台、平和台公園に「平和の塔」が建っている。神事で用いる御幣の形に模して石柱を連ね、高さ36・4メートル。
昭和15(1940)年、皇紀2600年を記念して建てられ、十銭紙幣に描かれるほど親しまれた。 
戦前は名称も異なった。
「八紘之基柱(あめつちのもとはしら)」。
カムヤマトイハレビコノミコト、後の初代神武天皇が日向から東征し、大和に橿原宮を造営した際の言葉が基になっている。
2015・1・9 
【直言極言】陛下の御言葉と安倍談話[桜H27/1/9]
「コメント」
戦後70年を期して出されるであろう 「安倍談話」 について、念頭に発表された天皇陛下の御言葉を振り返りながら予測してみます。
2015・1・7 産経ニュース (1/2ページ) 伊藤真呂武、今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)前半】
「南太平洋に慰霊に行きたい」 何度もご提案で実現
「記事内容抜粋」
戦後50年となった平成7年、天皇、皇后両陛下は強い希望をかなえ、広島、長崎、沖縄、東京・下町への「慰霊の旅」を果たされた。
しばらくたったころ、陛下は、侍従長だった渡辺允(まこと)さん(78)に「『南太平洋』に慰霊に行きたい」と相談された。 
南太平洋というのがミクロネシア地域、国でいえば、パラオ共和国、ミクロネシア連邦、マーシャル諸島を指されているのは明らかだった。
いずれも先の大戦時には日本の委任統治領で、米軍との攻防で甚大な戦禍に見舞われていた。 
海外での慰霊は周囲には唐突に映ったかもしれないが、陛下は長年にわたってお考えを温められてきたのだろう。
実際、7年の慰霊の旅の後に出された感想の文書では、「遠い異郷」という言葉を使い、海外の犠牲者や遺族への追悼の思いをつづられている。
2015・1・7 産経ニュース (1/3ページ) 【天皇の島から 戦後70年・序章(6)後半】
鎮魂の祈り、敵も味方もない 尽きない英霊への思い
「記事内容抜粋」
平成17年6月、米自治領サイパン島の「バンザイクリフ」。
天皇、皇后両陛下は、高さ80メートルの断崖絶壁に立ち、白波が立つ青い海原に向かって深々と頭を下げられた。 
この岬では、米軍に追い込まれた日本軍や民間人が「天皇陛下万歳」と叫びながら自決したとされる。
その魂が眠る聖地へ黙礼されるお姿は、見る者の心を強く揺さぶった。 
現地で見届けた遺族の一人は「ようやく戦争が終わった。天皇陛下は昭和天皇の戦争に対する思いを引き継いでこられ、大きな宿題を果たされたと思う」と感慨深そうに話している。
  《あまたなる命の失せし崖の下 海深くして青く澄みたり》
 
日本は常に国の繁栄と世界平和を願う天皇陛下を頂く素晴らしい国である。
人と言うのは恐れ多いが、世界は広と言えども天皇陛下程、神々しい人物がおいでになるのだろうか? 日本民族は天皇陛下を誇りに堂々と生きるべきである。
産経新聞には素晴らしい記事を掲載して頂き感謝している。
2015・1・5 産経ニュース (1/3ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)後半】
目にされた焼け野原「何もない。原宿の駅に」 戦没者ご慰霊への“原体験”
「記事内容抜粋」
天皇陛下が昭和19年7月から疎開されていた栃木・日光にも、20年に入ると空襲の警報が響き始めた。 
ほどなく「疎開とは言わず、『夏季錬成だ』と言われて奥日光に行くことになった」。
陛下と学習院初等科の同学年で最後まで疎開をともにした明石元紹(もとつぐ)さん(80)は振り返る。 
標高約650メートルの日光から約1500メートルの奥日光へ、いくつもの急カーブが連なる「いろは坂」も越えてたどり着いた先が、硫黄のにおいが立ち込める湯元温泉だった。
  「なぜ特攻隊戦法を」  書き初めの決意
中略
  「平和國家建設」 
陛下はこの言葉を実践するかのようにその後、国内各地、さらには海外で、戦没者慰霊の旅を重ねられることになる。(今村義丈)
2015・1・5 産経ニュース (1/2ページ) 今村義丈 【天皇の島から 戦後70年・序章(4)前半】
父の詔勅聞き「変わられた」 サイパン陥落でご疎開、奥日光での終戦
「記事内容抜粋」
  パラオ・ペリリュー島の戦いが終わってから1年足らずで日本は敗れた。 
     「堪え難きを堪え、忍び難きを忍び-」 
昭和20年8月15日正午、ラジオから流れた昭和天皇の終戦の詔勅(しょうちょく)が日本と日本人にとって一大転機となったこの瞬間、皇太子だった11歳の天皇陛下も父の声を聞かれていた。
場所は、栃木・奥日光の山深い湯元温泉の老舗「南間(なんま)ホテル」(現在は廃業)別館2階奥の間。当時は「宮城(きゅうじょう)」と呼ばれていた皇居から約130キロ離れた、疎開先だった。 
側近らは周りで立ち尽くし、むせび泣いた。
「陛下の放送で日本が負けたことをはっきり知った」(昭和49年のお誕生日会見)というご様子を、ホテル関係者は「頭を垂れ、正座したひざに置いたこぶしはぐっと握り締められていた」と側近から聞いている。
2015・1・2 産経ニュース 
陛下「国民一人一人に少しでもよい年に」 皇居で新年一般参賀 初参加の佳子さまも笑顔で手振られる
「記事内容抜粋」
新年恒例の一般参賀が2日、皇居で行われ、天皇、皇后両陛下と皇太子ご夫妻はじめ皇族方が宮殿「長和殿」のベランダに立ち、集まった人々に手を振って応じられた。
午前9時半の開門までに昨年より5千人ほど多い約1万7千人が列を作り、10時10分ごろからの初回で陛下はマイクを通じ「新しい年をみなさんとともに祝うことを、誠によろこばしく思います。本年が国民ひとりびとりにとり、少しでもよい年となるよう願っています。年頭に当たり、わが国と世界の人々の安寧と幸せを祈ります」とお言葉を述べられた。 
昨年12月に20歳の成年を迎えた秋篠宮ご夫妻の次女の佳子さまも初めて参加し、笑顔で手を振られた。
 一般参賀は午後も午後1時半ごろと同2時20分ごろに行われる。
2015・1・2 ユーチューブ 
【海外の反応】「日本の文化を象徴してる」 皇宮護衛官の交代式を観た外国人の反応!!
「コメント」
映像は皇居正門にて行われる皇宮護衛官の交代式の様子。
毎日行われておりますが、警備上の問題から正確な時間などは公表されていない為、目にするには運、或いは待ち続ける根気が必要になるようです。
2015・1・1 私の元旦 
9:00 元旦の大分の天気 大晦日に降った雨が一旦止んだが、元旦朝、ちらほら降っていた雪が強風と共に大粒の雪と変わり30分で辺り一面銀世界になった。
元旦の大雪、余り記憶にない。
吹雪く景色を見ながら「2015年 日本はシナ、韓国との歴史戦に臨むのだが、厳しい一年になるだろう」と思ったが、午後には晴れたが再び曇り風が吹いた。
日本は夏までが大変、次第に良くなるが、再び10月頃から荒れ模様の一年であろう。(当たるも八卦当たらぬも八卦)
初夢・・・一富士二鷹三なすびでは無かったが、彼女が楽しげに男相手に電話をしている姿を見ながら傍に立つ己が焼き餅を焼いている夢をみた。
初夢は人生初の経験であるが空しい夢、昔の彼女に夢で会えた事で良しとしよう。 
2015・1・1 産経ニュース 
天皇陛下、戦後70年の節目に新年のご感想
「日本のあり方考えていくこと極めて大切」 天皇陛下ご感想(全文)
「記事内容」
天皇陛下は、年頭に当たっての感想を宮内庁を通じ1日付で発表された。
今年が戦後70年の節目にあたることに触れ、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なことだと思っています」とつづられた。 
天皇、皇后両陛下は今年、戦没者慰霊のためにパラオ共和国を訪問される。
戦没者慰霊での海外訪問は、戦後60年となる平成17年の米自治領サイパンに次いで2例目となられる。 
陛下はご感想で、昨年の御嶽山噴火や大雨、大雪などでの被災者、4度目の冬を迎える東日本大震災の被災者らを案じておられた。 
平成26年末で81歳となった陛下は、24年の心臓手術後も体調は安定し、現状の公務を続ける意向を持たれており、宮内庁は行事の組み方を工夫するなど年齢に応じたご公務のあり方を検討するとしている。
 
戦後70年是非、靖国神社へおみ足をお運び頂きたいと願っている。
天皇陛下が何も気兼ねなさらず、靖国神社に参拝する日が何時になるのだろうか? 日本は幕が切って落とされているシナと韓国との歴史戦に必ず勝利しなければならないと思いを強くした。
2015・1・1 毎日新聞 大久保和夫
<皇室>天皇陛下「歴史学ぶこと、極めて大切なこと」
「記事全内容」
  ◇15年年頭の感想、終戦70年に触れて
天皇陛下は2015年の年頭に当たり、宮内庁を通じて感想を公表された。
今年が終戦から70年という節目の年であることに触れ、戦争で多くの人々が亡くなったとし、「この機会に、満州事変に始まるこの戦争の歴史を十分に学び、今後の日本のあり方を考えていくことが、今、極めて大切なこと」と思いを述べている。
今年4月初めに西太平洋のパラオ共和国を訪問し、戦没者への慰霊を行う。
また、阪神・淡路大震災20年の追悼式出席のため1月に兵庫県を訪問。さらに3月11日には丸4年となる東日本大震災の追悼式に出席し、2日後に仙台市で開かれる国際会議で宮城県を訪れるなど、自然災害の被災地や被災者への思いを新たにする。
また、5月に石川県で予定される全国植樹祭には、この春開通する北陸新幹線の利用も検討する。
秋篠宮家の次女佳子さまは、国際基督教大学(東京都)に今春入学。皇族最長寿の三笠宮さまが12月に100歳を迎えられる。
両陛下や皇族方は元日、祝賀行事に出席。
2日は一般参賀で皇居の宮殿ベランダに立つ。
同日は午前9時半から午後2時10分まで皇居・正門(二重橋)から入場できる。
 
天皇陛下のお言葉に込められた思いは我々と同じ思いなのだろうか?